巣鴨プリズン跡地の現在とは?サンシャイン60と処刑場跡の真実
池袋のランドマークとして連日多くの人々で賑わう「サンシャインシティ」。ショッピングや水族館、展望台を楽しむ家族連れや若者が行き交うこの巨大複合施設の足元に、昭和史の巨大な転換点となった舞台が存在した歴史は、時の経過とともに知る人が少なくなっています。
第二次世界大戦後、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)に接収され、極東国際軍事裁判(東京裁判)の戦犯容疑者が収容された「巣鴨プリズン(旧東京拘置所)」。東条英機元首相らA級戦犯の死刑が執行された処刑場の正確な位置や、超高層ビル街へと生まれ変わった再開発の舞台裏、そして現在も現地に残る痕跡の真実を取材班が徹底検証します。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:巣鴨プリズン跡地は現在、超高層複合施設「サンシャインシティ」および「東池袋中央公園」へと完全に姿を変えている。
- 要点2:東条英機らの死刑が執行された処刑場跡はサンシャイン60の直下ではなく、隣接する東池袋中央公園内にあり、「永久平和を願って」の慰霊碑が静かに佇んでいる。
- 要点3:「池袋なのに巣鴨」と呼ばれた理由や、戦後復興・副都心再開発の経緯を正しく理解することで、都市の発展と平和の尊さを再確認できる。
【歴史の変遷】巣鴨拘置所からGHQ接収、そしてサンシャイン60建設へ
豊島区東池袋の一角が歩んできた道のりは、日本の近代史・戦後史そのものを象徴しています。もともとこの地には1895年(明治28年)に「警視庁巣鴨監獄」が設置され、その後「巣鴨刑務所」、そして1937年(昭和12年)に「東京拘置所」へと改称されました。
敗戦を迎えた1945年(昭和20年)、施設は連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって接収され、「スガモプリズン(Sugamo Prison)」と改称されます。ここには極東国際軍事裁判(東京裁判)において戦争犯罪人として起訴されたA級戦犯容疑者をはじめ、国内外で逮捕されたBC級戦犯容疑者など、最盛期には約2,000名が収容されました。
1948年(昭和23年)12月23日、東条英機元首相を含む7名のA級戦犯に対する死刑(絞首刑)が所内の処刑場で執行されました。その後、1958年(昭和33年)に施設は日本政府へ全面返還され、再び「東京拘置所」として機能することになります。
転機が訪れたのは昭和40年代です。老朽化した拘置所の移転と、新宿・渋谷に次ぐ「池袋副都心化」を目指す東京都の大規模再開発計画が合致。1971年(昭和46年)に東京拘置所が葛飾区小菅へ移転したことを受け、巣鴨プリズンの解体工事が本格化しました。西武グループや三菱地所などの共同出資によって設立された株式会社サンシャインシティが主体となり、1978年(昭和53年)、当時アジア最高層(地上60階・高さ239.7m)を誇った「サンシャイン60」を中心とする複合都市が開業しました。

【現場ルポ】巣鴨プリズン現在の様子と東池袋中央公園の慰霊碑
現在の東池袋を歩くと、かつて重厚なコンクリート壁と鉄格子に囲まれていた面影は一見すると皆無に思えます。しかし、サンシャイン60の東側に隣接する「東池袋中央公園」へ足を運ぶと、明確な歴史の痕跡に行き当たります。
緑豊かな木々に囲まれた公園の北東角、木陰にひっそりと佇むのが「永久平和を願って」の慰霊碑です。この石碑が立つ場所こそが、かつて巣鴨プリズンの絞首刑台(処刑場)が設置されていたピンポイントの位置にあたります。
石碑の裏面には、次のような言葉が刻まれています。
「第二次世界大戦後、東京裁判において戦犯とされた人々が、この地で処刑された。平和の尊さを心に刻み、二度と戦争の惨禍を繰り返さないことを願って、ここに碑を建立する。」
普段の東池袋中央公園は、近隣のオフィスワーカーがランチをとったり、アニメ・コスプレ文化の撮影スポットとして賑わう日常の憩いの場です。しかし、東条英機らの命日にあたる12月23日や終戦の日には、歴史を知る市民や遺族、歴史研究者が訪れ、静かに手を合わせる姿が見受けられます。
【データ徹底比較】巣鴨プリズン時代と現在のサンシャインシティ
軍事占領下の刑務所から、年間数千万人を集客する商業・ビジネスの拠点へと変貌を遂げた敷地のスケールと機能の差異をデータで整理しました。
| 項目 | 巣鴨プリズン(1945–1958年) | サンシャインシティ(現在) | 編集部の見解・評価 |
|---|---|---|---|
| 敷地面積 | 約53,000㎡(約16,000坪) | 約47,000㎡(公園部等含む全体約60,000㎡) | 敷地全体がほぼそのまま現在の再開発区域に合致する |
| 主要施設・建造物 | 放射状獄舎棟、管理本館、絞首刑台(処刑場) | サンシャイン60(地上60階)、専門店街アルパ、プリンスホテル、文化会館等 | 閉鎖的空間から、回遊性の高い開放型複合施設へ全面刷新 |
| 処刑・収容実績 | 戦犯死刑執行計60名(A級7名、BC級53名) | 東池袋中央公園に「永久平和を願って」の慰霊碑を設置 | 処刑場位置はビルの下ではなく、隣接公園内に位置する |
| 都市機能と役割 | 軍事管理下の戦犯収容・行刑施設 | 池袋副都心の経済・文化・観光の中核拠点 | 戦後日本の「負の記憶」を「未来の活力」へ転換した象徴 |
都市伝説の真相究明|「池袋の心霊スポット」とネットの誤解
昭和後期から平成にかけて、オカルトブームとともに「サンシャイン60は心霊スポットである」という噂がネット掲示板やメディアで拡散されました。しかし、歴史的事実と照合すると、その大半は事実無根のこじつけや誤認であることが分かります。
誤解1:「処刑された戦犯60名に合わせてサンシャイン60の階数が決まった」
ネット上で長年語り継がれている代表的な都市伝説ですが、これは完全な偶然と創作が混ざり合った俗説です。サンシャイン60が60階建てとなった主たる理由は、敷地の指定容積率や当時の超高層建築構造設計基準、航空法による高さ制限(240m規制)の限界値を追求した結果です。設計段階の構造計画において、処刑者数を階数に反映させたとする記録は存在しません。
誤解2:「処刑場はサンシャイン60の真下に埋まっている」
ビル本体の基礎工事現場が処刑場であったかのように語られることがありますが、GHQ当時の配置図および豊島区の公文書記録によると、絞首刑台が設置されていたのは敷地の北東端です。その位置は現在の東池袋中央公園内であり、サンシャイン60の超高層タワーが建つ位置とは空間的に明確に分離されています。
誤解3:「なぜ池袋にあるのに“巣鴨”プリズンと呼ばれたのか?」
現在サンシャインシティがある場所の住居表示は「東京都豊島区東池袋三丁目」です。なぜ池袋駅の近くにあるのに「巣鴨」という名称が使われたのでしょうか。理由は歴史的な行政区画の変遷にあります。
監獄が建設された1895年当時、この一帯は「東京府北豊島郡巣鴨村」に属していました。当時、現在の池袋駅周辺は何もない農村地域であり、周辺で最も栄えていた宿場町が「巣鴨」でした。そのため施設名に「巣鴨」が採用され、GHQ接収時もその呼称が引き継がれました。現在の「東池袋」という地名が制定されたのは、昭和41年(1966年)の住居表示実施以降のことです。
【専門家分析】ダークツーリズムの視点から見る都市再生と記憶の継承
都市社会学や歴史学の観点から巣鴨プリズン跡地を検証すると、日本における「負の遺産(ネガティブ・ヘリテージ)」の扱い方に関する明確な特徴が浮き彫りになります。
欧州のアウシュヴィッツ強制収容所や広島の原爆ドームのように、惨禍の記憶を建造物のまま永久保存する形態とは対照的に、戦後日本は「経済復興と近代化」を最優先とし、暗い歴史を帯びた建物を全面的に解体・再開発するスクラップ・アンド・ビルドの手法を選択しました。
施設名を「サンシャイン(太陽・光)」と命名した背景には、監獄・拘置所という閉鎖的で陰鬱なイメージを払拭し、池袋を光り輝く未来都市へと転換させようとした当時の官民一体の強い意志が込められています。
一方で、過去の事実を完全に消し去るのではなく、処刑場跡地に「永久平和を願って」の石碑を建立し、豊島区の史跡として保存した点は、都市開発と歴史的記憶の調和を図った現実的な着地点といえます。訪れる者にとってこの場所は、単なる商業空間にとどまらず、平和の代償と都市の変遷を深く思索させる教育的な空間としての役割を担っています。
【散策ガイド】東池袋の史跡を巡るおすすめルートと注意点
巣鴨プリズン跡地の歴史を肌で感じるための、効率的なフィールドワークルートをご紹介します。
- ステップ1(池袋駅東口〜サンシャイン60通り):巨大な繁華街の熱気を感じながら、副都心としての発展の勢いを観察します。
- ステップ2(サンシャインシティ敷地内):超高層タワーの壮大さを体感し、かつてこの広大な敷地全体が巨大な刑務所であったスケール感を把握します。
- ステップ3(東池袋中央公園):公園の北東エリアへ向かい、「永久平和を願って」の慰霊碑を確認します。石碑の周囲には解説板も設置されています。
- ステップ4(護国寺方面への散策):周辺の路地には、大正・昭和初期の石積みの排水溝跡など、古き時代の痕跡が点在しています。
【訪問時のマナーと注意点】:東池袋中央公園は公共の憩いの場ですが、慰霊碑の周辺は厳粛な祈りの場でもあります。大声での騒擾を控え、歴史に敬意を払って静かに見学することが求められます。
【巣鴨プリズン跡地】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:巣鴨プリズンの当時の建物や鉄格子などは現地に残っていますか?
A1:サンシャインシティおよび東池袋中央公園の敷地内には、当時の建物や鉄格子などの構造物は一切現存していません。すべて1971年以降の解体工事によって撤去されました。現在現地で確認できる歴史的痕跡は、東池袋中央公園内の「永久平和を願って」の慰霊碑と案内板のみです。なお、建物の一部部材や資料は、博物館や大学の研究機関などに分散して保管されています。
Q2:サンシャイン60の展望台などから処刑場跡を見ることはできますか?
A2:展望台「サンシャイン60展望台 てんぼうパーク」から東池袋中央公園を見下ろすことは可能です。公園の北東角の緑に囲まれた一角に慰霊碑が位置しており、上空から敷地全体の配置関係を把握することができます。
Q3:なぜ池袋駅の近くにあるのに「巣鴨プリズン」という名前だったのですか?
A3:監獄が設置された明治時代当時、この一帯の自治体名が「東京府北豊島郡巣鴨村」だったためです。当時は池袋という地名よりも巣鴨の方が広域の拠点として認知されており、GHQの接収後もその名称がそのまま英名(Sugamo Prison)として使われました。
まとめ:歴史の記憶を紡ぎ未来の平和を見据える池袋の現在地
池袋のサンシャインシティと東池袋中央公園は、昭和の激動期における戦争と占領の傷跡を乗り越え、目覚ましい戦後復興と都市再生を成し遂げた日本の歩みを今に伝える極めて象徴的な場所です。
華やかなエンターテインメントと賑わいのすぐ隣に、かつて処刑場が存在し「永久平和を願って」の祈りが捧げられているという二面性こそが、この街が持つ歴史の深みです。東池袋を訪れる際は、現代の利便性や賑わいを享受するとともに、足元に眠る平和への願いに思いを馳せてみてはいかがでしょうか。 (出典: 巣鴨 プリズン 跡地(Yahoo!ニュース))